松本哲夫氏に迫る ~剣持デザイン研究所と日本のモダンデザイン

2007年11月3日、千葉大学で第1回出張松本塾を開催しました。千葉大学工学部建築学科1期生で、剣持デザイン研究所所長の松本哲夫氏(1953年卒業)を迎え、現役学生3人がその偉業に迫りました。インタビュアーは、岡本篤佳さん(森永研究室M1)、皆川拓さん(岡田研究室M1)、宍戸幸二郎さん(栗生研究室M1)。

「デザインは計画だ」という設計のエッセンスから、車両デザインの風圧解析の話まで。たっぷりお届けします!


ジャパニーズモダンとは (2008.11.24更新)
いいものを広く (2008.11.24更新)
剣持デザイン研究所 (2008.11.24更新)
日本IBMオフィス (2009.1.8更新)
スーパーひたち・・・「俺はここにいるぞ」 (2009.1.8更新)
「定性的な問題はちゃんと若い時からやりなさい」 (2009.06.05更新)
僕は「デザイン」というのは「計画」だと思っている (2009.06.05更新)
ヤクルトの容器 (2009.06.05更新)
車両のデザイン (2009.06.05更新)



ジャパニーズモダンとは

宍戸: 何をもってジャパニーズモダンというのでしょうか?
松本:

剣持勇がジャパニーズモダンという言葉を最初に使ったんだろうと思います。”ジャパニーズモダンとは何か一言で言え”といえば、剣持は「日本のデザインだ」という風にしか言わないんですよ。彼は伝統的な技法を使うことを考えていないんですよ。

なぜ彼が「ジャパニーズモダン」と言い出したかというと、(当時、産業工芸試験所にいた)剣持が1952年に通産省から命じられ、メカノデザインの調査で約6ヶ月アメリカにいたことがあると思います。

そのとき向こうで見たのが、ヨーロッパ、特に北欧で生産されたものでした。フィンランド、スウェーデン、デンマークの3国で生産されたもの。特にスウェーデンのものがスウェディッシュモダンと言われて、当時ニューヨークあたりのマーケットにたくさんあり、西海岸、サンフランシスコあたりでけっこう売れていた。

アメリカのマーケットの中で売れてるといってもわずかな量だと思うが、相当評価が高くインテリゲンチャが興味を示しているのを見た。ほとんど木工で、木で作った椅子が多い。もちろん、陶器もある。アメリカでもモダンな陶器をデザインしているアーティストがかなりいた。

剣持が日本から来たことは理解されていて、バイヤーとかショップの店主から「日本のものを輸入してジャパニーズモダンとして売りたい」と言われたらしい。彼らはもちろん剣持が通産省の官僚ということも知っているわけです。

1920年代、30年代に産業工業試験所(元工芸指導所、1952年産業工業試験所に改名)で活躍した人は、ほとんど木工を研究していた。少しずつ技術的な研究もしていた長い歴史がある。僕が入った時(1953年)には、東芝の扇風機なんていうのもデザインしている。工業意匠科と雑貨意匠科があって、工業意匠科は工業デザインをやる。工業意匠科の中に装備意匠係があった。主として家具を設計している研究セクションで、僕はそこへ放り込まれた。そこでもやっぱり対米輸出をするためにデザインを利用しようと考えていた。

岡本: 世界に通用するものを日本から発信しようということですか?
松本: そういうこと。役所としては、「ジャパニーズモダン」は、ひとつのきっかけであって、要はアメリカのマーケットに売れそうなデザインのいいものがどんどん出てきたらいいなと思っていた。それの元みたいなものを研究して提案しようとした。

僕が入った頃は、ノックダウン、要するに部品としてバラバラのものをアメリカに持って行って簡単に組み立てられるものを研究のテーマにしていた。

岡本: その時代の印象としては、大量生産のやり方の研究をしていて、例えばプラスチックの製品を、型を作って何個も作れるような研究していると思っていたが、同時に日本的なものを意識していたのでしょうか。
松本: いや・・・、日本的なものというより、日本のあらゆる産業は、初めてそこでかなり近代的なマスマーケットを相手にしたプロダクションを本当に実現できる機会がきたということだと思う。

1950年半ばくらいからだんだん60年代にかけて、日本の経済が伸びて所得もあがるでしょ。所得があがれば、それに見合うような製品の需要が生まれる。大量に作れば品質もよくなるといういわゆる大量生産の神話がうまれるわけよ。ところが、技術と生産というものがせめぎあっていて、両方がうまく行くのは少なかった。わりあいそういう時代なんですよね。

やっぱり、デザインがドルをかせぐツールになりうると、少なくとも通産省の人間だった剣持は考えたに違いない。

もうひとつは、戦後かなり建築の世界が左に行ってたやつが、1950年代後半、右に振り始めたという側面もあります。左といっても思想だけの話ではないが、思想的な問題もあった。

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いいものを広く

松本: 終戦直後はとにかく焼け野原だから、建築家はいかに安く住宅を作るか考えていた。僕らは防空壕の上に中を少しきれいにして屋根をかけて、半分地下に入ったいわば縄文時代の掘っ立て小屋みたいなものに住んでいた。風はともかく雨は防げないから、焼け残ったうちに間借りをした。

小さな家に何所帯も入るんですよ。お母さんが寝返りしたために、赤ちゃんが夜中に圧死しちゃうとか・・・。そんな問題がおこるような劣悪な住居環境の中でみんな育ってきた。

それに対して、建築家として何かできないかと一所懸命考えたのが、RIAのローコストハウス(1952年)。しかも、なんと上野の東京都美術館の彫刻の展示場で実際に出来た(第16回新制作派協会展)。山口文象さんがそれを設計して新建築(1952年10月号)にも発表されている。

その住宅は、軒・桁に母屋がいきなりのっかって母屋が梁代わりになる。緩い勾配の屋根で、母屋が梁代わりになる設計で、木材をできるだけ少なくした。柱は2寸5分、平均75ミリ。普通は3分割のところを2寸5分にした。そしたらね、それで一応かなりのローコストのものができることがわかってきた。

岡本: その考え方は、そのころに松本さんがもし建築の仕事をされていたとしたら・・・、
松本: のるでしょうね。僕は何回もインタビューされて、大分前だけど、”きわめて素朴な意味の社会主義者だよ”と言ったんだけど。それ、デザインの雑誌に載っちゃったんだけどね。
僕はやっぱりいいものを広く使って欲しい。こういう仕事をしてるんだったら、自分がいい生活をしたいためにデザインするという考えは僕にはなかった。少なくとも僕の世代は、みんなそうだったと思いますよ。
岡本: 今はそうでないところがあるということですか?
松本: いやいや、僕がそう思っているということ。

変な話、デザインをするとか、建築の設計もそうだと思うけど、商売としてデザインというのは成立つのかね。こんなに効率の悪い仕事はないと思うけどねえ。だってきりがないわけよ。

岡本: きりがないって言うのは・・・。
松本: 設計料はこれしかないんだから、それでここまでやったらあと時間的にこれ以上使えないからやれない、という考え方はあると思うんですよ。もちろん、だからといって、手抜きをしたり、安くあげちゃうなんてバカなことはありえないけど。

徹夜なんかしなくていいのに、徹夜しながらぎりぎりまでなんとかなんなかいかなあと・・・、一所懸命もっとよくなんないかなあと考えるじゃない?それは君たちだってそうでしょ?設計料なんてもらわなくたって。大学の制作なんてそうでしょ。だけどその部分は世の中に出てこないじゃない?

僕は本当に最初の頃、給料安くてさ、これだけおもしろい仕事してるんだから、もうちょっと給料増えないかなと思ったけどだめだね。剣持勇が贅沢してさ、彼だけすげえ立派な車にのってさ、所員は背広も買えないでひーひー言ってるっていう、そういう世界ではなかったね。剣持もかなり貧乏していた。

グラフィックデザイナーの中にはすごく優雅な生活している人いたからね。職業というか職能の社会的な認知度の違いだと思う。グラフィックデザインはかなり歴史が古い。ちゃんとデザイナーとしての立場が社会的に認められていた。

だけど「工業デザイン」てのは誰も言ってなかったし、いわんや「インテリアデザイン」なんてのは「それ何?」て感じだったね。勤めて独立して1957年くらいになっても、「インテリアデザインやってます」といっても、「インテリアデザインってなんだ?」と言われた。デザイナーというとファッションデザイナーだった。コスチュームのデザイナーは世の中にいっぱいいて、それはみんな知ってるけど、インテリアデザイナーは知らない。

「建築家」というのも一般的には通用しない。今は、黒川が死ねば、「建築家黒川紀章」という風に書かれる。一般の人たちでも知っている。安藤忠雄でもそうでしょ。だけど、「家」っていう名前で理解されることは非常に極めて少ない。あとはみんな「建築士」なんですよ。

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剣持デザイン研究所

宍戸: しばらく剣持さんとデザインをいっしょにやられていたのですか。
松本:

僕が(産業工業試験所に)1953年くらいに入った。1955年の6月に剣持が(産業工業試験所を)やめて独立するわけ。ジャパニーズモダンのプロジェクトをいろいろやったけど、やっぱり結局は役所の中のシステムでは限界があるから、民間でやった方が具体的にいろんなことが提案できると考えたんだと思う。

岡本: 実際にやりやすかったという実感はありましたか。
松本: 剣持はあったでしょうね。

僕は1957年に剣持デザインに入った。僕にちゃんとした給料が払えると自信を持った上で、剣持が僕を呼んだ。そういうところはわりと慎重な人でした。産業工芸試験所に4年間しかいなかった。

産業工芸試験所を辞める前も、僕は夜は剣持の事務所に行ってましたよ。一番最初に夜に通って剣持の仕事を手伝ったのは僕だよ。

宍戸: 後に松本さんが所長になられるわけですが、所員の頃と、所長になってからとではデザインするときの気持ちに違いはありますか。
松本: 基本的には僕はないと思ってます。

僕は剣持事務所に入った時、既にチーフなんですよね。だから、絶対にみんなのやっていることをまとめなきゃいけない。だから、自分がスケッチでもドローイングでもして、こういう風にしたいんだと。

まず剣持がそれをやるわけです。それを図面化するのが僕らの仕事でした。そのうちにみんなが描けるようになってくると彼はラフスケッチみたいなものだけ描くようになる。セクションペーパーに1/10をフリーハンドで描いて、「これを図面化しろ」と、そこから始まるわけ。僕はとにかくそれをやらせて、「これはこうじゃない、こうだ」とやってたわけだ。

僕の代になってからも最初はそれをやってたんだけど、僕の代になったときはね、インテリアと言ったって、せいぜい壁紙を選ぶとか絨毯を選ぶとかということしかなかった。言ってみればそれしかないんだよ。間仕切は出来ちゃってたから。デザインできるところが少なくて、僕はそれが非常に不満だった。がらんどうで、空調も照明も電気設備も全部うちにまかせてくれないと。

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日本IBMオフィス

松本: 一番最初にやったのは霞ヶ関ビル。そのとき日本設計からその話が来た。

建築をやっていたことは、圧倒的に有利でしたよ。例えば設備ラインなんてね、そこの中にみんな空調機の吹出しも吸込みも全部そこに入ってる。特にオフィスビルなんてのはそうなんですよ。

当時3m20グリッドてのがあった。3m20グリッドてのは非常に非人間的モジュールなんですよ。

どうせまた3m20グリッドだから、なんとかしてくいとめるために、前もって勉強しちゃおうということで1年くらい勉強会してましたよ。

宍戸: 3m20グリッドがこういう理由でよくない」と言うのは難しいのですか。

 

松本: そんなことない。

どっちが経済的かという経済効率の問題があるわけよ。オフィスビルはレンタブル比がどのくらいあるかで買うわけ。中に柱のないすごく長いスパンで真ん中にコアがあるスタイルがある時期のオフィスビルの典型になる。

日本IBMとの仕事を僕らがやり始めてから、設計は当時の日本設計、インテリアは剣持デザインという風に、日本IBMは建築の設計とインテリアデザインを同時発注した。だから最初から僕らも関わっている。

建築がいろんな案を出してくるでしょ。

例えばこういうオフィスがほしい、どこにこれだけの面積の倉庫がほしい、応接間がいくつほしい、そこにいるセクションの人たちはこういう使い方をする、という情報は建築家に行かないで僕らに来る。

空間的にも、僕らから、こうやったらいいんじゃないかなというような案がいくつかあるわけです。

そうすると敵はそうじゃない想定をしながらやっているから、コアがどこ、エレベータをどこに持ってくるか、とか出てくるわけ。

日本設計の人たちって縁が深いから、知ってる人はたくさんいるし言い易いからがんがんやるわけ。そういうことになると建築を勉強していないと戦えないわけ。だって、設備がこの辺にあってどういう風にやったら効率がいいかとかさ。例えばスプリンクラーとかも。そういうのを僕ら側からも提案して行った。

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スーパーひたち・・・「俺はここにいるぞ」

岡本: 事例の紹介が遅くなってしまって申し訳ないのですが、、、。スーパーひたちの例で言うと、国鉄が民営化されてJRとして生まれ変わった時に、新しい風を入れたいという事で工業デザイナーに頼んで、コンセプトメイキングの部分から作ってもらおうという流れだったと思うのですが。

この例でも最初から関わられていたんですか。

松本: いやぁ実はね、これだけはある程度発注されて始まっていたんだよ。

だけどたまたま僕と他の3人がね、国鉄時代から車両設計事務所ってのがあって、そこに非常勤の嘱託として6、7年関係していたんだよ。僕らが存在している時に色々変わって行く時点でサジェスチョンがあって役は決まっていたんだ。

独立した時のJR東日本の車両部長が、僕がたまたま連絡を入れたときに、「なんか特急を作るっていう話が聞こえているんですが・・・」といったら、「あ、君たちがいたのか。すぐ明日来い」と言われて行った。でもこれはもう発注しちゃっているっていうんだ。だけどとにかく我々としてはやるからにはね、デザイン料くれないとイヤだよって言った。向こうは民間からは必ずあげると。国鉄の時はだって無給だったんだから(笑)。

そして、それだったら意味があるなって思ったのは、上野駅で常磐線の特急はターミナルで一番地下にあったこと。他に線路もあってさ。どこにこの特急があるかっていうのを、こいつが自分で先頭の所でピカピカしたり、おれはここにいるぞと。他に線路もあってさ。どこにこの特急があるかっていうのを、こいつが自分で先頭の所でピカピカしたり、おれはここにいるぞと。

 

岡本: 言ってくれないとわからない?
松本: そうそう。

何の何号はここですよっていうのを、見せてあげられると意味があると思ってさ。それから大体に地下だから暗いんですよね。地下っていうか地上階なんだけど上に大屋根が乗っかっているからそのように感じるんだけど。

だから、先端に電光版をつけようと思ったわけ。

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「定性的な問題はちゃんと若い時からやりなさい」

宍戸: インテリアのイス等に比べて、安全面等でデザインに制限がかかったりしなかったんですか?
松本: それはありますよ。安全面でいうとね、もちろん飛行機の場合には安全面重要ですね。ただあれはアメリカの航空規格があって、それをクリアしないとダメなんだよ。日本国内であればいざしらずだけど、海外は入れてくれない、アメリカの空港に着陸させてくれない。

すごいんだよ、アメリカは。それが世界中の基準になっちゃった。船もそうですよ。客船「飛鳥1」の一番最初の形は僕らがデザインしたとき、インテリアから外形をいじっても良いんだと言われたものなんだけど…。

アメリカのコーストガードってあるでしょ。湾岸警備隊。あそこが持っているルールをクリアしないとアメリカに入国できない、グアムにも行けない。昔はロンドンのロイズっていう保険会社があってそこの保険料なんかのルールがあったんだけど、今はそれにはなんの価値もない。全部アメリカのルールで動いている。そういうことはやってみないとわからないんだけど、いっぱい出てくるわけ。

あとは材料の問題。実際には材料実験もやるでしょう。ああいうのは馬鹿にならない。だから僕は家具をやるのでもなんでも、それはもう散々、「定量的な事は君たちやらなくても良いけど、定性的な問題はちゃんと若い時からやりなさい」って言われたね。どこに荷重がかかったら、どこにモーメント力が生じるかとかね。「出来ればクレモナ図ぐらいはかけないと」って言われたから。

宍戸: どれくらいかかるかではなくて、どこにかかるかということですね?
松本: そうそうそう。クレモナ図ってあれは少し定量的な問題もあるんだけど。シンプルビームで、真ん中に力がかかればどこに一番大きなモーメントがかかるか、で、かならずモーメントがゼロになる部分がある。あんなことでも、知ってるか知らないかは大違いだよ。
 

 

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僕は「デザイン」というのは「計画」だと思っている

皆川: せっかく今日は千葉大でご講演くださっていて、学生も多く参加してくれているので、人生の大先輩である松本先生から学生に向けて何かメッセージがあればお伺いしたいと思います。
松本: メッセージ!?そんなロクな人生を歩んできていないからな(笑)。

僕はまぁ大学出て働いてから、あらゆるデザインをやってきたんだけど。もちろんご存知ヤクルトだとかダスキンの掃除器具なんか色々やりました。

デザインという言葉でくくっちゃうとちょっと語弊があるかもしれないけど、だけど何やってもね、僕は「デザイン」というのは「計画」だと思っているから。

姿や形を変えているのはほんの一部であって、実は世の中のニーズがあって、その目的にどう対応できるかという計画を立てる事が一番大切なんだよね。僕はデザインというのはどこまでいっても「計画」だと思っている。設計やプランニングだとか言うけれども。

ある企業がどこの土地にどれくらいのお金をかけて、そのお金はどこから持ってくるかっていうそういう計画だってさ、場合によっては建築事務所がやっているっていうケースがあるんだよ、頼まれたら。それはやっぱり計画でしょ。それでこういう構造物でどんぐらいの高さのものを作っていうことを考えるわけでしょ。その考える事が実は建築家の仕事なんだ。

例えばダスキンの掃除器具で見てもらうと、今はもうないものなんだけど、左端の黄色い部分は取り外しが出来るわけなんですよね。上のプラスチックで作った形の部分だけ残るわけ。

だからあそこの部分だけをつかんでどこを掃除するかって言うとね、車の屋根なんだよ。あれをつかむとホコリがきれいにとれるんだよ。車のボディを拭くダスキン製品っていうのがあってもいいんじゃないかって僕ら側からもそういう話をして、向こう側もそれいいなってことになって、じゃあデザインしようかってことになった。

だからどういう行為をするかっていうのが先にあって、それから人間の手の長さとかを含めて、どのぐらいあれば行けるかって考える。

もちろん屋根だけじゃなく、ボディやボンネットも拭かなくちゃいけないでしょ。だからそうすると単なるハタキのようなものでは具合が悪い。だからこういうのがひとつ形になった。

計画を立てて、これぐらいのものになった。後はハンドリングがどのくらい上手くいくかということ。

2週間に1回、とにかく汚れれば取り替えるわけだから。持って帰って洗濯して、またちょっと油をしみ込ませて戻ってくるわけですよ。貸しぞうきんっていうのは実に不思議なシステムです。

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ヤクルトの容器

上垣内: ヤクルトはどういう経緯でやったのですか?
松本: ヤクルトの仕事?あれね、どういう経緯で来たのかな?そう言われてみるとね、その部分僕も欠落してるんだな。あれが初めてなんだよね、それからヤクルトの本社ビルを作る時も僕らに仕事が来たんだけど。
中谷: あのヤクルトって、前はガラスの瓶でしたよね。この形のメリットってなんなんですか?全然変わってないでしょ。
松本: 形のメリット?んー、ヤクルトには元々プラスチックなんてなかった。
で今まで変わってない。かれこれ40数年。
中谷: それだけ同じ形で続けられるということは、メリットがあるんじゃないんですか?
松本: メリットねぇ。
中谷: つまり普通、型を作れば、型はそんな何十年ももたないでしょ。型を変えるならそこでデザインも変えてもう一回っていうのが・・・
松本: 乳製品のこの手の飲料の形っていうのは、ほとんどこれが定型になっちゃった。よそ様でも似て非なるものが出てくるわけですよ。
中谷: シンボルになっちゃった。
松本: いわゆるガラスの牛乳の瓶あるじゃない?あれ誰がデザインしたかわからないけど、極めて具合がいいじゃない。僕らがこれをデザインした時には、ああいうものを作りたいよねっていうのが我々側の考え方だった。
中谷: ある意味ではスタンダードを作ろうと。
松本: そう。

僕らがこれをやったなんてことは、知らなくてもいい。だけどそれを毎日口にくわえてくれる子供たちにはね、子供だけじゃなくて大人もくわえているんだけどさ。

そういう飽きのこないものでなにかないかなぁと。その形を探そう探そうと思ってやってきた。で、こうなった。

もちろん条件があったのね。ガラスの瓶と内容量同じなんだよ。それでいてガラスは厚いでしょ。これはものすごく薄い、1mmもないんだから。それによって小ちゃくなっちゃう訳だよ。それを同じ高さで、同じ容量なんだけど出来るだけガラス瓶より大きく見せろって。それが要求だった。考えたよねー。

田中: それはそうだと思うんですよ。

ガラスの瓶だけどね、バヤリースオレンジってあるでしょ。なんであんなくびれた形かというと、中身の量が少なくても最大限大きく見えるデザインになっている。

だからこれも真ん中がくびれていて、内容量の割にボリュームが大きく見えるっていうのが向こう側の注文っていうことだったわけだ。

松本: あそこをへこましたのは僕のアイデアなんだけど。

容器は整列機のベルトコンベアに乗ってカタカタ運ばれて充填機のところへ行く訳ですよ。するとそのときに必ずガイドがあるわけ、落っこちちゃうと困るから。ガイドの位置がちょうどあそこにくればねいいんじゃないかと最初は思った。だけどやってるうちに、「あぁそうだ、あれだけあの部分を細くすると外見を稼げる」って気付いたわけ。

ただね一番困ったのは、樹脂量を決められていたことです。一つに使われる樹脂の量。それに内容量も決められている。だから回転体の体積計算がすげぇめんどくさかった(笑)。

形を作れば良いって訳じゃない、それらを全部クリアしないといけなかった。これはね基本構造担当3人くらいと僕も入ってやっていた。だって今だったらねコンピューターで簡単に行っちゃうんだけどさ、あの頃ないんだもん。一般的に構造計算なんて、大概計算機でこうやって回してやるしかなかった。カルキュレーターっていったってあんまりいいのないんですよ。スウェーデンかどっかにあってね、後で電動になるんだけど。最初はカタカタと押してやると計算値がでるものだったんだけど。でそれは体積計算もできるやつでね、それなんかも買い入れたりして色々やったよ。だから元手かかってるんだよ。

一個100万っていったときにさ、向こうの社長が、「えっ!?」ってびっくりしたけどさ。

冗談じゃないよ、その当時1000万本作ってたんだから。「100万÷1000万ってのは社長いくらですかね、それが365日で、こいつだったら多分何十年も使えますよ」っていったら、本当に何十年も使う事になって、タダみたいなもんだよね。

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車両のデザイン

上垣内: もう一個質問良いですか。最近ロマンスカーを岡部憲明さんがデザインされたじゃないですか。南海の先端部のデザインを若林さんがされたり。建築家が鉄道をデザインするっていうのは聞くようになったんですけど。以前から車両デザインをされていた松本さんから見て、建築家が鉄道の車両のデザインをすることをどう考えられているか、これから建築家の職分ってそういう風に僕らも活かして行けるのかっていうことなんですが。
松本: それは大いにあるでしょ。
上垣内: 上手くいってるように見えますか。
松本: 南海のは、車が重くなってるね。ロマンスカーは極めて上手くいってると思いますよ。僕も乗ってみたけど。
上垣内: 彼がレンゾ・ピアノのところを出て、やっぱりそういう構造っていうか空力みたいなものを勉強したっていう感じが出ているんでしょうか?
松本: いや、それは僕はわかんない。それにあれくらいのスピードだったら空力の問題はない。

今、東の方で僕がプロジェクトやっているやつは、時速が320キロ、僕は360キロっていう交渉をしているんだけど、それはどうやっても苦しい。だから環境との組み合いの問題もあるし、音の問題と、それとトンネル出た時の衝撃波の問題とをクリアできないといけないので。

それから後尾と前とが同じ形してるじゃない。でも後ろ側って、左右に車体が振れて蛇行する訳ですよ。それを押さえるためにはどうしたらいいか、そういう計算も全部入ってくる。

で、それはもちろん僕らも最初はわかんなかったけど、飛行機屋さんがちょっと入ってくれたらすごい答えが導ける。特に一番空力で言えば、圧力がかかるか。ガラスの部分は、それは建築やっているひとはみんなわかるかもしれないけど、(曲面のガラスだとすると)右から風が来ると、左側で渦を巻く。

飛行機はだけど、その渦がないと持ち上がらない。だから風圧が大事。

ところが列車は風圧かかると大変なんですよ。前に行こうとするものを後ろにどんどん引っ張ろうとする。だからその風圧がかからないようなデザインにしないとならない。それからどうしても後ろに渦ができるんですよ。それがものすごく大きくて。簡単に言うとこういう断面に対して、風が来るとね、最後に内側にまわる円ができる。僕が間違っていなければカルマン渦って言うんだけど。航空力学の話。内側に巻くんですよ。それが車体を持ち上げるというよりは後ろに引いちゃうんだな。300系が、そうなんだよ、車体の最後尾の1m手前ぐらいで渦ができちゃう。そうするとかなりスピードを、前にいくやつを引っ張っちゃう。それを出来れば、車体の1mくらい先でその渦が始まってくれると全然車体には影響が無くなる。

それがどうやったら出来るかっていうと、航空屋さんと技術者と色々解析してくれるから、こっちがこうしたらどう?とかああしたらどう?とか言う。

それともうひとつは、岡田さんみたいなああいう形だと新幹線みたいなものではダメな訳よ。だから出来ればきれいにとんがった形のがあるじゃない。そうじゃないと後ろが蛇行しちゃってどうしようもない。

上垣内: 500系ですか?
松本: 500系。

あの車ついにのぞみになるでしょ今度。揺れがあって、後ろの方に乗ると乗り心地悪いんですよ。だいたいこう小さいでしょ?いかにもかっこいいんだけどね。

あのぺたっとしたカモノハシと言われているのは、そういう理由があるわけよ。で、出来るだけ平べったい、断面でいうと戦闘機のコックピットみたいな。

あれが実は垂直尾翼の役目をしてくれる、横に揺れるのを押さえてくれるのよ。っていうのが解析して来てわかって来ている。

大川: すいませんちょっとまた時間が押してまして・・・。また懇親会の時に松本さんを取り囲んで色々お話聞いていただきたいと思います。ちょっとまとめるのも難しいのですが・・・、最後にデザインとは計画だというお話を頂きまして。実務をやっているとなかなかで、その部分をはしょりがちですが、もう一回、心に留めておきたいなと思います。

学生さんもそれなりにその部分から感じるものがあるのではないかと思います。松本さん今日は本当にありがとうございました。

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今回でおしまいです。
読みにくいところもあったと思いますが、
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
レポート:小倉亮子(’95卒、’97院卒)、岡本篤佳(’07卒、’09院卒)